社会をめぐる反実仮想あるいは、可能世界的問い。
新聞とかテレビで、政策の成功・失敗というのをよく耳にする。実際に聞くのは、圧倒的に「政策の失敗」ではあるが。
この記事は、政策の成功・失敗というところから話を始める。
政策の成功・失敗というのはどう意味なのだろうか?
特に、政策の失敗というのは何を含意しているのだろうか。
例えば、「政府の景気対策は失敗だった」とか「定額給付金は失敗だった」という言説は何を意味しているのか。
広辞苑によれば、成功とは「目的を達成すること」である。失敗は成功の逆。つまり、失敗とは「目的の達成にいたらなかったこと」でしょう。
何を当たり前かという感がするが、この言い換えによって、新たに「目的」という用語が登場してきている。成功・失敗という議論をするためには、目的(目標)が明確になっていなければならない。
「定額給付金の成功・失敗」を議論するためには、何がその政策の目的だったのかをまず議論しなければならない。ある人は消費の刺激が目的だというかもしれないし、ある人は所得再分配が目的だったというかもしれない。何が目的だったのかというのは、政策の成功・失敗を考える上で欠かせない問題である。だが、必要なのはこれだけではない。
例えば、数年前にある政策Aが行われたとして、その目的は次の年の経済成長率を押し上げることだったとする。実際の翌年の経済成長率がマイナスだったとき、その政策Aは失敗だと評価できるか。これを自明だということはできないだろう。もし、そのAが行われなかったとしたら、もっと成長率は低かったかもしれない。逆に、実際の翌年の経済成長率がプラスだっとしても、その政策が成功だと評価することはできなだろう。もし、Aが行われなかったとしたら、もっと成長率は高かったかもしれない。あるいはこんな可能性もある。もしあの時、Aではなく政策Bが採られたとしたら、もっと成長率は高かった可能性がある。このとき、Aは失敗だったのだろうか、それとも成功だったのだろうか。
ここで注意しておきたいことは、前の段落において、「繰り返し「もし〜だったら」という反事実的条件文が使われていることである。ここで述べたいのは、政策の成功・失敗という議論は、結局実際に起こらなかったことをどのように捉えるかという問題に行き着くということである。逆に言えば、現実に起きたことだけをもとに、成功や失敗を語ることはできないということです。
簡単な例で話を進めよう。例えば、私が「一週間後に100mを10秒で走れるようになる」という目標を立てて練習をしたけれど、目標をまったく達成できなかったとする。その時に、目標の達成・不達成という観点からからそのまま、その練習方法の成功・失敗を語るのは馬鹿げている。多くの人は、そもそもの目標の設定に非難を浴びせるだろう。
ここでは目標の設定の妥当性についは脇に置くとする。それは、基本的には価値判断の問題であり、目標設定者の好みの問題である。(といってもこれはこれで重要な問題である)
その上で練習方法の妥当性(成功・失敗)を検討するには、他の実際には行われなかったにもかかわらず、実際に選択しうる練習方法がどういう結果をもたらしたのだろうかといいうことを考える必要がある。
さて陸上の練習方法に関しては、実際に起きなかったことを予想するという困難を相当程度回避できる。例えば、ある週に練習法Aを採用し、次の週に練習法Bを採用することで、二つの練習法の比較を行うことができる。あるいは
、似たような性質(年齢・性別・体力など)の人が採用した練習方法がどういう結果にいたったのかを調べたりする方法もある。つまり、異なるがしかし似たような事例を、実際に採用しなかった練習法がもたらしたであろう結果を予想するのに大きく役立つ。
しかし、社会の政策に関して、同じように似たような事例を参考にするのは、非常に困難である。なぜなら似たような事例を参考にするには、比較対象の社会の状況・性質が十分に似ていることが必要であるが、そのような近似した社会状況はほとんど考えられないからだ。別の観点でいえば、似たような事例を十分集められるように、社会のある部分のみを切り出して議論するということがほとんど不可能なのだ。(先の陸上の練習法で言えば、例えば甲さんが新自由主義者で、乙さんが社会主義者であっても、両者の体格や年齢など陸上に関する属性が似ていれば比較可能な事例とすることができる。)
そしてなお困ったことに、社会全体に大きな影響を及ぼした重大な政策や決定(例えば、日本の太平洋戦争の開戦決定)ほど、こうした切り出しがより困難なのである。
ここまで、政策の議論には、実際に取らなかった選択肢をどう評価するかという問題が必須だということを見てきたが、では実際に起こらなかった選択肢の結果を評価するとはどういうことなのか。
二つの問題がある。
一つは、他の選択肢がどういう結果をもたらしたのかという問題である。もう一つは、そもそも取りえた他の選択肢とはなんだったのかということである。
前者に関しては、比較的事実解明的な問題でもあり、実際に答えをだすのは難しいとしても、議論そのものは成り立ちやすいように思われる。
一方後者はどうか。これは私たちの社会に関する統制感を問題とする。
一つの極端な立場としては、物理的に可能であれば、それは政策的にも可能だという、私達の能力に高い想定をおくものが考えられる。こうした立場では、社会政策に対する成功・失敗の批評は他の立場に比べて楽になる。1941年の戦争を回避することも可能だったし、あるいは2005年に郵政法案が可決されないということも可能となるだろう。あとは、それらの選択肢がどのような結末をたどったかという問題のみを解決すればいいということになる。(といっても物理的に可能な範囲が何を意味するのかというのは難しい問題ですけれど)
もう一方の極端な立場としては、実際にはとられた選択肢以外の選択肢は他になかったとする宿命論的な立場がある。つまり、1941年の開戦の選択は避けられないし、2005年の郵政法案の可決も避けられないものであり、もし開戦を避ける選択肢がとれそうだとしても、他の勢力の影響(世論・軍部・外国とか)によりできなかったのだということになる。
実際には、二つの立場の中間ということになりそうだが、どのぐらいの立場が丁度いいのか。これは、なんとなく事実解明の問題というより、社会に対する私達の思想が問われる問題な気がする。
追記)この記事に関して、こないだ(といっても二ヶ月近く経ったけれど)、可能世界論(分析哲学の1領域?)の勉強会に参加させてもらいました(ありがとうございました)。非常に興味深くて、今日の記事にそこらへんを取り入れたいと思いましたが。私の力不足という感じ。一言書くと、社会の問題では、推移性が重要概念なのかもしれない。社会の結果に関して、非推移的な関係でも、推移的な関係だとみなす傾向があるのかもしれない。
追記2)読み返してみると、なかなかわかりにくい文章になっているかもしれない。その一因に、選択肢の可能性の問題と、選択肢の結果の可能性の問題を、明確にしていないことにあるようだ。そのうち書き直すかも。